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東京地方裁判所 平成6年(ワ)12374号 判決

原告

株式会社デンユー企画

被告

株式会社鹿島エンタープライズ

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実及び理由

第一原告の請求

一  被告は、原告に対し金一〇二一万〇六〇八円及びこれに対する平成六年六月三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用の被告の負担及び仮執行宣言

第二事案の概要

一  本件は、ガソリンスタンドを業とする原告が、原告代表者の内妻が交通事故に遇い、このために原告の業務に支障を来たして減収したとして、運行供用者である被告に企業損害について賠償を求めた事案である。

被告は、本件事故と企業損害との間の相当因果関係を争うとともに、原告が補償金を受領したことで被告を免責したと主張する。

二  争いのない事実

1  本件交通事故の発生

事故の日時 平成三年一一月一七日午後六時三分ころ

事故の場所 千葉県野田市下三ケ尾三二七番地三の原告経営のガソリンスタンド内

加害者 時枝正信(加害車両運転)

加害車両 普通貨物自動車(練馬八八あ二六六三)

被害者 石井征江(以下「石井」という。)

事故の態様 前記ガソリンスタンド内で加害車両が給油終了後道路に出る際、計量器に接触したため後進したところ、石井は、加害車両と計量器の間に挟まれて負傷した。

2  責任原因

本件事故の際、時枝正信には後方不注視の過失があり、また、同人は被告の従業員であるところ、本件事故は被告の業務執行中に生じたもので、被告は、民法七一五条に基づき、本件事故につき責任を負う。

3  損害の填補

原告は、平成四年四月一日までに、被告の保険会社である訴外東京海上火災保険株式会社(以下「訴外会社」という。)から、営業補償として一一五万一七二五円を受領した。

三  本件の争点

1  営業損害と相当因果関係

(一) 原告

原告は、ガソリンスタンドを業とする株式会社であるが、その実体は、原告代表者及びその内妻石井がアルバイト二名を雇用して夫婦で営業する個人商店であり、本件事故前は、午前六時から午後一二時までの一日一八時間営業をしていた。

本件事故により、石井は、平成三年一一月一七日から平成四年二月二七日まで小張総合病院に入院する等して、平成六年八月三一日まで通院し、その間、原告への就労が困難となつた。このため、原告は、後記石井の資格の点もあつて、一日平均四時間以上ガソリンスタンドを閉鎖せざるを得なくなり、また、原告代表者は石井の介護のため時間を取られ、顧客への信用は著しく失墜した。右石井の不就労の期間のうち、平成五年一月一日から平成六年五月三一日までの間は、原告は一日につき四時間休業しており、その結果、売上純利益が一時間当たり四九四七円として、一〇二一万〇六〇八円減少した。

原告の営業規模、石井が原告代表者の妻であつて協同生活をしていること、消防法上、ガソリンスタンドでは危険物取扱者の資格者を二名以上従事させ、このうち二名を保安監督者として届出なければならないところ、原告の保安監督者は、原告代表者と石井であり、アルバイトの補充では石井の代替要員を確保することが困難であることから、本件事故と事業体である原告の損害について相当因果関係がある。

(二) 被告

ガソリンスタンド従業員である石井の受傷と事業体である原告の収益減との間に相当因果関係を欠く。被告は、被害者石井には休業補償等を支払つており、石井に対する人件費の支払いを免れた原告は、欠員の従業員を補充すれば収益を確保することが可能であるからである。

なお、石井にも本件事故について過失がある。

2  免責の成否

(一) 被告

原告は、本件交通事故に基づく営業補償等一切の損害について、平成四年三月一五日付免責証書をもつて、一三二万二二九三円(内一一五万一七二五円は営業損害分)の支払いを受けることにより、被告に対する一切の請求を放棄した。

被告は、本件事故と営業損害との因果関係に疑問があつたが、原告が二か月分の営業補償をすれば、あとは企業努力でカバーし、一一五万一七二五円で一切を解決すると主張したので、右支払いに応じた。

仮に、原告に何らかの錯誤があつたとしても、動機の錯誤に過ぎず、また、免責証書の送付案内書には疑問があれば担当者に連絡をするように記載していたのに問い合わせを一切しなかつたから、原告に重大な過失がある。

(二) 原告

免責の事実を否認する。当初、石井の負傷は小張病院で全治二か月と診断されたことから、原告は、訴外会社に対して、取りあえず平成三年一一月一八日から平成四年一月二〇日までの二か月分の営業補償を求め、その支払先の銀行の表示の目的で被告主張の免責証書に署名したに過ぎない。

仮に、免責証書の署名により同日以降の営業補償についての免責が成立するならば、錯誤により、右意思表示は無効である。

第三争点に対する判断

一  営業損害と相当因果関係

甲一の1ないし3、五、一〇、乙二、原告代表者本人、弁論の全趣旨によれば、原告は、信用調査、石油製品販売等を業として昭和五七年二月に設立され、昭和六三年五月に現在の地に本店を移転した株式会社であること、原告は、有限会社船橋石油店が設置したガソリンスタンドを賃借し、原告代表者とその内妻である石井が主体となり、アルバイト数名を雇用して、ガソリンスタンドを経営してきたこと、平成四年までは原告代表者のみが危険物保安監督者であつたが、同年から二名の設置が義務付けられたため、同年三月一七日からは、石井もこれまでの実績に基づき危険物保安監督者となつたこと、石井は、本件事故により手首に傷害を受け、入通院治療やリハビリ治療を受け、原告のための就労をしなかつたこと、この影響もあつて、原告の売上高及び売上総利益は除々に減少していつたこと、本件事故後の営業不振のため、石井はガソリンの仕入れ先に原告のため二〇〇〇万円の現金担保を積んだことが認められる。

右認定事実によれば、原告は石井の休業のため相当の損害を受けたこと、及び石井は、原告の単なる従業員ではなく、原告代表者とともに原告の経営に実質的に携わつてきたことが認められ、石井の原告代表者との身分関係、危険物保安監督者となり得たことも考慮すると、原告の右売上総利益下落による損害のうちには、本件事故と相当因果関係があるものがあると考えられないわけではない。

しかしながら、被告は、原告が被告を免責したと主張しているので、企業損害の成否はさておき、右被告の主張を検討することとする。

二  免責の成否

1  甲二ないし四、乙一、原告代表者本人に弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) 原告は、平成三年一二月、本件事故に関して被告の示談代行をする訴外会社に対し、石井が本件事故のため就労することができなくなつたことから一日四時間の休業を余儀なくされ、このため収益の減少を来したとして、月平均売上純利益から一時間当たりの売上純利益を割り出し、全治二か月を前提に、一日四時間の休業による原告の二か月分の営業損害として一一五万一七二五円を請求した。その頃は、石井の担当医が石井の傷害を全治二か月とする診断書を発行していたため、原告代表者は、石井の傷害が全治二か月であることを念頭に置いて、訴外会社の担当者と交渉をしたのである。このため、原告代表者は、同担当者から右請求以外の分をどうするかと聞かれた際にもその後の損害については企業努力をする旨を告げ、同担当者も、これに応じて原告の営業損害を一一五万一七二五円とすることに合意した。原告代表者は、ここにいう「その後」とは、石井の職場復帰後のことを念頭においていたが、交渉の際には、この点を明らかにしていなかつた。

(2) 訴外会社は、平成四年三月一三日、原告に対し免責証書の用紙を送付した。同用紙は、『「損害賠償に関する承諾書」(免責証書)(対物用)』と題するものであり、時枝正信を甲、原告を乙、被告を丙、訴外会社を丁とし、本件事故を特定した上で、不動文字で『上記事故によつて乙の被つた一切の損害について、乙は「甲・丙」の保険契約に基づき丁より、下記賠償額を受領後には、その余の請求を放棄するとともに、下記金額以外に何ら権利・義務関係のないことを確認し、甲・丙および丁に対し今後裁判上・裁判外を問わず何ら異義の申立て、請求および訴の提起等をいたしません。」と記載し、手書きで原告の損害額として一三二万二二九三円、その内訳を給油計量器一七万〇五六八円、営業損一一五万一七二五円と記載し、損害賠償額のうち一一五万一七二五円を原告受領分、一四万〇五六八円(訴外会社の免責額三万円を控除した分)をニホンエンジニヤリングサービス株式会社分とするものである。訴外会社は、同免責証書の用紙の送付に当たり、これに『「損害賠償に関する確認書」(免責証書)ご送付について』と題する案内書を添えたところ、同案内書には「ご不明な点がございましたら、ご遠慮なく上記担当者までご連絡ください。」との注意が記載されていた。

(3) 原告代表者は、当該書類をいずれも読んだ上で、免責証書の該当欄に原告受領分についての銀行口座を記載し、原告代表者本人の署名、押印をして訴外会社に返送した。原告代表者は、対物用の免責証書に営業損害を含めて記載してあることに不審な点があると感じたが、この点について訴外会社の担当者に問い合わせをすると支払いが遅滞すると思い、とにかく金が必要であつたため、免責証書に署名、押印をして訴外会社に返送したのである。訴外会社は、その後、原告の指示した銀行口座に一一五万一七二五円を振り込んだ。

以上の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

2  右の事実によれば、原告としては、石井が二か月で完治することを念頭におき、石井の治療が長引けば、さらに営業損害の請求をしていく意図で、営業損害の交渉をしたこと、しかし、訴外会社は、原告の営業損害すべてについての交渉であることを前提として原告の請求どおりの金額に応じ、原告には、その余の請求権がなくなることを明示して、免責証書に署名するように指示したこと、原告もこの点を承知した上で署名に応じたことは明らかである。そうすると、原告が前示の免責証書に署名、押印して訴外会社に返送し、一一五万一七二五円の支払いを受けることにより、被告に対する一切の請求を放棄したものというべきである。

この点、原告は、当初の二か月分についての営業損害金の支払先の銀行の表示の目的で免責証書に署名をしたに過ぎないと主張する。なるほど、原告代表者は、石井の傷害が全治二か月であることを念頭に置いて、訴外会社の担当者と交渉し、請求どおりの金額の回答を得たのであり、この点のみを捉えて判断するならば、そのようなことが言えないわけではないが、前認定の免責証書や案内書の記載内容、この点についての原告代表者の前示の不審の認識からすれば、原告代表者は、免責証書に署名・押印して訴外会社に送付することにより、その余の請求権がなくなることを承知していたことは明らかであつて、右主張には、理由がない。

3  次に、原告は、免責証書の署名により同日以降の営業補償についての免責が成立するならば、錯誤により、右意思表示は無効であると主張する。しかし、前認定判断のとおり、原告代表者は、交渉の場で免責証書に署名したものではなく、郵送された関係書類を読んだ上で、その余の請求権がなくなることを承知して、免責証書に署名、押印して訴外会社に返送したのであり、このことに、返送の当時は既に本件事故から四か月が経過し、原告代表者において石井の治療が長引いていることを承知していたことも総合すれば、錯誤の事実は認められず、右主張に理由がない。

仮に、原告主張の錯誤があるとしても、前認定の事実によれば、原告代表者は、訴外会社担当者との交渉の際に、石井の治療が二か月以上となる場合は別途営業損害の請求することを表示したものではなく、また、訴外会社の担当者から右請求以外の分をどうするかと聞かれた際にも、石井の治療が長引く場合のことを表示することなく、その後の損害については企業努力をする旨を告げているのであつて、これらの動機が表示されたものとは言いがたく、さらに、前示案内書等の記載にもかかわらず、予想される支払いの遅滞を嫌つて、担当者に連絡することなく、署名、返送しているのであつて、原告代表者に重大な過失があるものといわざるを得ず、原告の錯誤の主張には、理由がないといわなければならない。

第四結論

以上の次第であるから、原告の本件請求は、その余を判断するまでもなく理由がないから棄却すべきである。

(裁判官 南敏文)

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